人生という名のゲーム@花火大会
人生と言う名のゲームは、PT協力プレイも可能だが、様々な視点から近年はソロプレイヤー人口が増えている。
その理由として、PTプレイは多くのマイナスを生み得ることが挙げられる。
まずここで、PTプレイヤーというのはソロプレイヤー、つまり1人ゲームをするのではなく男女ペア等の二人以上でゲームをする人間を指す。
そのため、PTプレイヤー達はソロプレイヤー達と比較して多くの人間関係を構築している可能性が高い。
しかし男女ペアである状態から一方的に関係を断たれる時が訪れる。例えば「別の人を好きになった」という理由で別れたり、喧嘩して二人の間での関係の修復が出来なかったりなどである。
このようなイベントが発生するとPTプレイヤーはたちまち大きな悲しみの感情の渦に溺れることになる。
相手のことを忘れることができず等で立ち直ることが出来ないことも多々ある。
対するソロプレイヤー達も悲しみの感情に溺れることが無いわけではない。
彼らソロプレイヤー達はPTプレイヤーが取得し難い、俯瞰的に自身が置かれている状況を分析する能力に覚醒しやすい傾向がある。
この能力に目覚めたばかりの者は多かれ少なからず自身の境遇に一憂する。それは妬みであったり自身の顔面偏差値への嘆きであったりなど様々だ。
この苦難を乗り越えることでソロプレイヤー達は多くの成長を遂げることができる。
ならばPTプレイヤー達もその苦難を乗り越えることで多くの成長を遂げることができるのか?と問われればそれは正しくはない。
といういうことか、というと上記で挙げている様に苦難を乗り越え立ち直ることができない結果が多々あるからである。
また、関係が進んで”結婚”というイベントを経験していた場合、慰謝料の他に養育費等の一生の負債を背負うことになりかねない。
別にPTプレイが悪い、と言っているわけではないのだ。あくまでPTプレイにはソロプレイよりも多くの苦悩を抱えることが多い。ここを勘違いしないでいただきたい。
前置きが長くなった。本題に入ろう。
8月だ。上旬には花火大会の催しが集中しているためか、学校から帰っている時とある地下街に浴衣を着た多くの男女ペアを見かけた。変に浴衣を着ているから歩幅が小さくなり、移動速度が遅い。
そんな団体(?)が通路を埋め尽くしていた。だからこそなかなか地下道を進むことができず、移動に時間を掛けてしまった。
爆散してしまえばいいのに。
そう思った。
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人生という名のゲームはすごい。何がすごいのか、というとすごくリアルな3Dや人間の5感を始め、様々なイベントが発生しうる最高のゲームだ。
触ったり食べたり等で物を感じることができる。
このゲーム以外にこれらを併せ持つゲームはまだ無いのかもしれない。
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きっと彼らは今でこそ幸せを感じているのだろう。幸せ自体はソロプレイでも感じることができる。
いや、別に羨ましいとか感じてないし。
ソロプレイヤーにはPTプレイヤーとちがい、失うものが少ない。だからこそPTプレイヤーと比較して悲しみも小さく、立ち直ることができる。
だからこそ私は思う。
彼らはかわいそうな人達なんだ、と。
いや、別に彼らの関係が羨ましいと感じてないし。
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あるPTプレイヤーは言う。
爆発しろ、とかそういうことをPTプレイするために努力してないソロプレイヤーが言うな、と。
PTプレイヤー達は勘違いしている。
ソロプレイヤー達は別にそういうことを羨ましいとか羨望の目線で、爆発しろなどと言っているわけではないのだ。少なくとも私はそうだ。
通行の邪魔なのだ。
あえてあんなにゆっくり歩くなど悪意しか感じられない。
幸せなひとときを過ごしているのかもしれないが、周りの迷惑も考えて欲しい。
一つ間違えれば終電に遅れ、駅で一夜を過ごす必要があったかもしれないのだ。
いや、別にPTプレイヤー達はホテル等で過ごせばいいかもしれないがソロプレイヤーはそうもいかないのだ。
その日はなんとか終電に間に合うことができてよかったが。
こう、何とかならないものだろうか。
そんな一日であった。